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アベンジャーズは渥美清の夢を見るか?

アベンジャーズを観たのか観てないのかどっちなんだこの糞野郎などと捜査一課のやり手刑事みたいなデジタル思考で問うてくる輩が延べ8万人も自宅に押しかけてきてその度に麦茶を出していたら8万杯もの麦茶を出したことになり、その麦茶具合に怒りを覚えつつ、アベンジャーズ観た際にふと映画史上もっとも悲しいカットのことを思い出したので、アベンジャーズ観た証拠のひとつとしてその話を書いておこうと思う。


そのカットというのは山田洋次監督の映画『学校』という作品で観ることができる。この作品を観た際に非常に感動したことははっきり覚えているのだが、残念なことにあらすじを完全に忘れてしまったのでどういう作品だったのかをここで紹介することはできない。この作品を観た際にこの作品のあらすじを世界中の一人でも多くの人に伝えたいと思ったことはほぼ間違いないだけに、ここであらすじを紹介できないことは本当に残念でならないわけだが、この作品のなかで私が覚えている唯一の場面が映画史上もっとも悲しいカットを含むものだったことはほぼ間違いない。


先にも触れた通り、映画『学校』がどういう作品だったか覚えていない関係で、その場面が物語の中でどういう位置付けで出てきたものなのかを説明することができない。今の一文は特に書く必要もないかなと思ったのだが、あまりに論理的なのでついつい書いてしまった。


さて、その映画史上もっとも悲しいカットというのは、渥美清さんが登場する場面のものだ。だらだらとした枕の直後に繊細な配慮も見せずにズバリ核心を突いてしまって大変申し訳ない。渥美清と言えば、言わずもがなのことだが言わずにはおられないのでついつい言ってしまうけれども、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズで寅さんを長年演じておられたあの渥美清だ。「あー男はつらいよって、あのドランクドラゴンの相対的に地味でない方がやってるやつか」と思ってしまった若い方のために純粋な親切心で指摘しておくとそれは男はつらいよでなくて裸の大将なんだわ。


映画『学校』で、渥美さんは八百屋の主人役で出演されている。友情出演のような形で数カットのみの役だったように記憶しているのだが、とにかく大事なのはその渥美さんの登場シーンなのだ。そのシーンがどういうシーンであったのかは大人の事情で忘却の彼方ではあるのだが、渥美さんがバーンと画面に現れたとき、映画館では信じられないことが起きたのだ。


さて、その信じられない場面については次回に紹介することとしよう。今日はここまで。とか書くと「こいつ結局『学校』も観てねえのか糞野郎」とか言って絡んでくる多国籍の愛国者集団が湧いてくるので今回書いちゃうことにする。渥美さんが登場した瞬間に映画館で何が起きたのか。


爆笑が起きたのだ。特に面白いことを言ったわけでもないのに画面に顔が映し出された瞬間に爆笑が起きたのだ。


山田監督がどういう意図で渥美さんを出演させたのかは分からないけれど、あの時の観客の感覚はおそらく「渥美さんが八百屋の親父役で出ている」というよりも、「寅さんがふざけて八百屋の親父役として出ている」というようなものだったように思う。そうでなければあの爆笑は説明できない。今の一文も特に書く必要もないかなと思ったのだが、あまりに論理的なのでついつい書いてしまった。


これは言い尽くされていることだと思うが、ある時期から俳優渥美清というのはこの世に存在せず、車寅次郎というキャラクターのみが存在することになってしまった。車寅次郎というのは俳優渥美清が演じているのではなく、そもそも寅さんとして存在するものとなった。ミッキーマウスは誰が演じるわけでなくミッキーマウスとして存在するのと同じである。実はミッキーマウスも最初は渥美清が演じていたのだが、次第に渥美清の存在は消えてゆきミッキーマウスそのものになったとかそういう歴史があったらビックリするけどどうもそれはないみたい。


リアリティというか、それらしさというか、そこでそれが起こり得そうだとか、そこにその人が存在しそうだとかいうような感覚というのはおかしなもので、実際の現実というか本当に起こり得ることと、しばしばあべこべになる。現実感覚と現実との間には深い溝が存在する。『男はつらいよ』の現実にみに存在する寅さんが『学校』の現実の中に出ていればそれはギャグなのだ。


さて、そこでアベンジャーズ。アベンジャーズを観ていただくと分かるのだが、超人ハルクには一切違和感を感じない。リアリティがある。「ああ、こんなの知ってる知ってる、国士舘大のキャンパスにはこんなのゴロゴロいるよね」と感じながら観ることができる。アイアンマンにしても、産総研の高木先生のデスクの両隣にはあんな感じのが座っていて、「じゃあ黙ってろクソが!」とひたすら連射しているのだろうという想像をしない日本人がこの世にいようか、いやいない。マイティー・ソーについても、北方領土のスポーツクラブに行けばにこやかにランニングしていることをみな薄々ながら勘づいている。


ところが、アベンジャーズにおいて、シールドの長官役を演じるサミュエル・L・ジャクソンだけは存在しない。あんな人いない。だから登場しただけで爆笑してしまった。デオチ・L・ジャクソン。このサミュエル・L・ジャクソンの登場シーンを観たとき、ふと『映画』における渥美清を思い出してしまったのだ。


実は、なぜ渥美清サミュエル・L・ジャクソンが笑われなくてはならなかったのかと問うてみると、それぞれ異なる解答が得られる。私見では、渥美清は笑われる必要はなかったが、サミュエル・L・ジャクソンは物語の構造上笑われざるを得なかったということになるのだが、それはこの記事のメインテーマから逸脱してしまうので、また後日改めて論じてみようと思う。


さて、この記事のメインテーマに移ろう。『学校』という世界に『男はつらいよ』の世界でのみ存在する寅さんが登場することで世界が不安定になるということは最初に述べた。すなわち「異なる現実感覚を持つ世界が衝突するとそれは必然的にギャグになってしまう」というのが、『学校』が図らずも示したメッセージであった。このメッセージもあまり知られていはいないのだが、このメッセージから着想を得た人物が遠くアメリカに存在していたことはさらに知られていないだろう。勘の良い方は既にお分かりのことだろうが、それが何を隠そう故サミュエル・フィリップス・ハンチントンである。


ハンチントンを知らない方のために念のため説明しておくと、当時お茶の間に水着一丁で突然現れて「トンチンハンチントン、トンチンハンチントン」と言いながら体をくねくねさせて、最後に「そんなの関係ねえ」と連呼するというスタイルで人気を博した国際政治学者である。


『学校』の公開は1993年。一方、ハンチントンの『文明の衝突』が出たのは1996年だが、これは1993年に「フォーリン・アフェアーズ」という外国人との不倫に特化したかのような名前の専門誌に掲載された論文 "The Clash of Civilizations?" をもとにして執筆されたのだ。



こうなるともうハンチントンが『映画』における渥美清から着想を得たというのは、業界ではコモンセンス的なコンセンサスが得られているというのは業界にいると明らかなのでありますが、一歩業界から出るとそれほど明らかでもないような気もするのでここで書き記した次第です。





秋ですね。