見直したぜあんつぁま『八重の桜』第四十九回レビュー

襄の死後、覚馬が同志社の臨時総長の職に就いていた。時代は日清戦争勃発の3年前であり、日本は富国強兵をすすめていた。この前年に出た教育勅語の精神にキリスト教の教えが相容れないとして同志社を批判するものもいて、同志社の入学希望者も大幅に減っていた。今回放送分の冒頭で覚馬が教育勅語を批判する場面が出てきたが、あれは愛国路線を推し進める安倍政権を暗に批判したということだろうか。内外の政治学者の間で「お尻の穴の小さそうな顔つきをした総理」と呼ばれて親しまれている安倍総理が果たして八重の桜を見ているのかどうか気になるところではあるが、気にならないといえば気にならないところでもあり、気にしないでおこうと思う。


八重は篤志看護婦人会京都支部で働いている。


そんなある日、覚馬のもとに山川健次郎が訪ねてきた。健次郎は川崎尚之助の会津戦記を完成させるため、会津が京都でどのように戦っていたか覚馬にインタビューしにきたのだ。健次郎は会津がいかに勤王の志が強かったかを書き残さなければならないと主張するが、覚馬は薩長にも勤王の志はあったと主張する。そして、会津にも過ちはあったと述べたことに対して健次郎も八重も激しく反論し、激しくやりあうことになる。


しばらくして同志社の卒業式の日。覚馬は卒業生たちに「どうか弱い者を守る盾となってください。」と説き始めた。そして富国強兵に邁進する当時の状況を踏まえて、聖書の一節を引いて次のように述べる。


「その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず。二度と再び、戦う事を学ばない。諸君は一国の、いや世界の良心であって下さい。いかなる力にも、その知恵であらがい、道を切り開いて下さい。」


この覚馬という人は下半身的にやや緩い人物であったという批判は免れないかもしれませんが、こんな教育をしていたのだとしたらなかなかの人物であったように思います。上から目線ですみません。そして翌年、覚馬は静かに息を引き取った。


そして次の場面で、売れない私小説作家のような人物が出てきた。懐かしの松平容保である。容保は山川ブラザーズにご宸翰を託す。容保は会津を滅ぼした責任を認めた上で会津に大義があった証拠を後の世に残してほしいと山川ブラザーズに語る。


こうして次々に大切な人を亡くして意気消沈する八重の背後に黒い影が忍び寄る。死んだはずだよお富さん。よくわからないかもしれませんがそんな感じでした。


そうこうしているうちに、日本と清との間の緊張が高まる。大山巌ラーメンマンをお洒落にしたような軍服を着ていたことに目を奪われてしまったが、そうこうしているうちに日清戦争が勃発。八重は赤十字の若い看護婦たちを率いて、再び戦へと赴くことになる。