武豊騎手3500勝達成問題に寄せて

さて競馬の武豊騎手が3500勝を達成された。このブログも競馬評論専門ブログと銘打っている以上、忙しさにかまけてこの偉業について一言も触れないというのは、現在の日本の繁栄の礎となった名もなき多くの先人に対して失礼であるばかりか、これから産まれてくる新しい世代の人々に対しても無責任であろう。そういう思いから私も一言述べようと思う。


さて、私が最も懸念しているのは、競馬に馴染みのない人にとってこの3500勝達成という事実がどれくらい凄いことなのか充分に理解されていないのではないかという点である。一般に、充分な予備知識がなく充分な理解が難しく感じられた場合には、自分に馴染みのある分野に引き寄せて考えてみると良い。そこで老婆心ながら武騎手の偉業を競馬以外の分野で例えてみようと思う。


まず例えば野球ファンの方であれば、ダルビッシュ投手を思い出せば良いだろう。ダルビッシュ投手は確かに凄い。豪速球と多彩な変化球で世界最高峰の舞台でも輝きをはなっている。しかし、いかにダルビッシュといえども馬に乗りながら投げているわけではないことをもう一度確認しておこう。武騎手の凄さを野球で例えるならば、ダルビッシュサラブレッドに騎乗し、左手で手綱を引き右手に野球のボールを持った状態で騎乗したままキャッチャーミットに飛び込む姿を思い浮かべると丁度いいだろう。



あるいはサッカーで例えるとどうだろう。メッシは確かに凄いし、C・ロナウドの技術も並外れていることは私も認めよう。しかし、いかにメッシやC・ロナウドといえども馬に乗りながらプレイしているわけではないことをもう一度確認しておこう。武騎手の凄さをサッカーで例えるならば、C・ロナウドサラブレッドの尻を蹴り上げて、蹴られた馬が無回転のままゴールネットに突き刺さるのを、なす術もなく呆然と見つめるツェフの姿を思い浮かべると丁度いいだろう。


球技が苦手という方は水泳で例えてもいい。平泳ぎのオリンピックウイナーである北島康介選手の凄さは誰しもが認めるところであるし、私とてその偉業を全面的に否定しようとは思わない。しかし、いかに北島といえども馬に乗りながら泳いでいるわけではないことをもう一度確認しておこう。武騎手の凄さを水泳で例えるならば、北島康介サラブレッドに騎乗したままプールに飛び込み、馬に平泳ぎをさせながら「気持ちイイ!超気持ちイイ!」と絶頂に達している姿を思い浮かべると丁度いいだろう。


あるいは馬術で例えてみてもいい。ロンドンオリンピックに史上最年長で出場した法華津さんがあの気力と体力と技術を維持していることに対する賞賛に私とて異議を挟むつもりはない。しかし、いかに法華津さんといえども馬に乗りながら馬術をしているわけではないことをもう一度確認しておこう。     


いや、乗ってるね法華津さん。と思ってしまった人にこっそりお教えしておくと、馬術というのは本当に馬に乗ってるわけではなく、いかにしてあたかも馬に乗っているかのように見せるかを競うものなのである。武騎手の凄さを馬術で例えるならば、法華津さんが馬に乗っているかのように見せながら、同時に実際に馬に乗る姿を思い浮かべると良いだろう(つまり、騎乗した状態で騎乗するわけだ)。


さて、そろそろ限界に近づいていることは百も承知だが、運動全般が苦手という人は、将棋の世界で考えてみてほしい。私とて羽生さんのこれまでの戦績が奇跡に近いという点を認めるにやぶさかではない。しかし、いかに羽生といえども馬に乗りながらあれだけの勝率を維持しているわけではないことをもう一度確認しておこう。あるいは、少なくとも、あの羽生睨みが馬に対しても効果があるのかという点についてももう一度真摯に検証してみる必要がある。武騎手の凄さを将棋で例えるならば、羽生さんが桂馬の駒を使わずによっこいしょと言いながら本物の馬を盤上に打ち込んでいる姿を思い浮かべると良いだろう。そしてそれでも表情一つ変えない谷川浩司さんの姿もついでに思い浮かべてみよう。


しかしこれだけ武騎手の凄さを強調しても、「いや羽生さんは将棋一筋で、女のことなど考えるような人間ではないと世間に信じ込ませておきながら、しっかりと畠田理恵さんと結婚までしているからやっぱり凄い!」などと考える人もいるかもしれない。しかし、いかに羽生といえども馬に乗りながら畠田さんにプロポーズしたわけではないという点をもう一度確認してほしい。その点についても武騎手はおそらく馬に乗りながら佐野量子さんにプロポーズしているはずなのだ。佐野量子さんと言っても若い方にはぴんと来ないかもしれないが、現在の芸能界で例えるならば、武騎手が佐野さんと結婚したというのは、前田敦子さんの求愛に対してドロップキックで拒否しながらローラと結婚したというような状況であろう。なぜ前田さんが引き合いに出されてドロップキックまでされなければならなかったのかという点は大きな謎ではあるが、その謎をとくのは後世の歴史学者の仕事になるだろう。


さて、脱線が多く自分でもなんのためにこれを書いているのかよくわからなくなってきた感があるが、これもすべてはてなという魔界が放つ妖力がそうさせるのであるから、はてなのことは嫌いになっても私のことは嫌いにならないでいただければ嬉しく思う。