橋爪大三郎は紅茶キノコの夢を見るか?
橋爪大三郎さんと大澤真幸さんのコンビは以前『ふしぎなキリスト教』という本を書いている。
この本は反響を呼び、「関連本」や「批判本」が出て一部で熱狂的な盛り上がりを見せたのは記憶に新しい。
この激しい攻防がどこに着地点を見出すのか誰もが不安に駆られていたところ、最終的?に『やっぱりふしぎなキリスト教』が出版されたことで「なんだ、やっぱりふしぎだったんだ!」とファンが涙を流したのも昨日のことのようだ。
左右社
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それはそれとして。今回紹介するのは「中国」をテーマにした橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司による鼎談である。
またしても何かが起きそうな顔ぶれではないか。講談社にしてもとにかく盛り上がってくれればいいというような意図が透けて見えてくるのは気のせいだろうか。
さて、中国についてよく知らない私がこの本の評価などできるわけがないのでそんなことはするつもりはないのだが、本書を読み進めていく過程で、ここだけは紹介しておくべきではないだろうかという箇所を発見した。「中国とはそもそも何か」と題された第1章の最後の大事なまとめ部分でそれは姿を現した。正しく文脈を追えているか自信がないので詳細は本書を直接あたっていただかなければならないのだが、鼎談の流れとしては、中国の政治を支配する原理は儒教であるという方向で進んでいたように思う。しかし、儒教の「過剰な政治重視」は「人間性を無視している面もある」という。つまり、文化や商売は政治の下に置かれて社会的地位が低いし、嫉妬や失望や死などのオルタナティブが無視されてしまうというわけだ。そして、そこでそうした儒教の欠点を補完する役割を果たすのが道教なのだと論が進む。儒教が切り捨てた呪術的な側面を道教が補うというわけだ。この点については漢字が宿す呪術性についての議論がアクロバティックに展開されている部分も個人的には読みどころなのだがあれを読んで猛烈に怒り出す人もいるのだろうなと想像してニヤニヤしてしまうほどには汚れてしまったのだった。
さて長くなってしまったが話を元に戻すと、メインストリームに儒教の原理があり、それを補完するものとして道教etcが存在するという話だった。この補完する原理はあくまで補完しているだけなので平常時にそれが前面に出てきてはならないのだが、それが政権交代などの、緊急時、動乱時になると話が変わってくるというのだ。こうしていよいよ核心部分に近づいてきている。引用しよう。
大澤 政権交替のときには、けっこうそれが効いてきますよね。
橋爪 でも、あっという間に消えてしまう。政権交替をした途端に。
大澤 なるほど。移行のときだけ、ちょっと触媒的に役立つと。
橋爪 うん。紅茶キノコみたいで、やたら増えるけれど、すぐ消えるみたいな(笑)。
宮台 紅茶キノコは、いまの若い人はまったくわからないね(笑)
第一章はこれで終わる。紅茶キノコ、紅茶キノコ・・・。もう何も頭に入ってこない。