河井ギャギャギャギャットリング・ベイビー継之助の冒険『八重の桜』第二十三回レビュー


八重の桜レビューも二十三回目となりました(放送では既に二十四回が終了しています)。さて、大河ドラマはドラマというくらいなので、史実そのままを描いているわけではないというのは重々承知しているわけですが、幕末モノくらいになると現代とのつながりも大きくなるためか、どれくらい史実を反映しているのかという点は気になってきますね。


お前が言うな。


ハイすみません。


戦国時代モノとかだと信長が女だったとか、秀吉がポルトガル人だったとか、伊達政宗は両眼とも視力が2.0だったとか言われてもあまり気にせずおおらかな気分で見ていられるので、このあたりの線引きは自分でも不思議な気がします。あと、ついでに言っちゃうと、例えば今回の放送分で、八重が米沢藩士に新式銃の手ほどきをするシーンがあるんですけど、そこで八重に手取り足取り教えてもらっている米沢藩士が「こんな綺麗な人に教えてもらって照れるなエヘヘ」みたいなことを言うシーンがあって、そこまでやられちゃうと申し訳ないけど、八重という人はそういう路線の人ではないでしょ?という感じがしちゃいます。それはもう脚色の域を超えて、純然たるフィクションになっちゃうのではないかと思ってしまうわけですね。そういうことなので、やっぱり八重役は片桐はいりにするべきだったのではないでしょうか。NHKが新時代を切りひらく勇気を欠いていたことを残念に思う次第です。


さて、それはそれとして。今回は満開の会津の桜で始まりました。おなじみの桜の樹に登り、戦死した三郎と消息不明の覚馬を想い、悲しみにくれる八重。しかし、その間にも会津の悲劇は進行しつつありました。


新政府軍は東北平定を目的として奥羽鎮撫総督府を組織し、総督には九条道孝、参謀には世良修蔵と大山格之助どんが就きます。反町さん扮する弥助どんではありませんので、これを読んでいる全国七万人の松嶋菜々子さんはご注意ください。さて、八重の桜で描かれている世良修蔵を観ていると、世良公則と松岡修造を足して二で割ってものから、世良さんと松岡さんそれぞれに0.5をかけて足し合わせたものを引いて、そこに小沢仁志さんを足したくらい嫌な野郎なんですけど、何であんな大馬鹿野郎が参謀になったのか不思議だったので、ちょこちょこ調べてみると、アンチ世良派と世良派の双方が熱心にそれぞれの立場を熱く語っていて圧倒されるとともに、アンサイクロペディア松平容保の項にのっている次の記述を思い出しました。

学校の歴史の授業の先生が容保、並びに会津について語る時やたらと饒舌になることがある。歴史の先生というのは大抵偏狭で険介なオタクが嵩じて教師となったものが多く、毀誉褒貶の激しい会津藩に対してはひどく肩入れしてるか、蛇蝎の如く嫌っているかのどちらか一つであるといってよい。


その先生が会津マンセーなら、薩長の卑劣さ、蹂躙された会津の悲惨さ、容保の優れた人物像という個人的な脳内捏造などをカリキュラムを完全に無視、いや放棄して延々と語り続け、酷い時には早乙女貢・星亮一・中村彰彦の著作を読むことを推奨、いや強要したあげく、生徒の目の前で古川薫や八幡和郎の著作を文字通り焚書にする。


しかしその先生がアンチ会津だった場合、会津藩の愚かしさ、今だ薩長に的外れの怨嗟を抱く会津人の粘着振りという個人的な脳内捏造などをこれまたカリキュラムを完全に無視、いや放棄して延々と語り続け、酷い時には古川薫・八幡和郎の著作を読むことを推奨、いや強要したあげく、生徒の目の前で早乙女貢・星亮一・中村彰彦の著作をこれまた文字通り焚書にする。



閑話休題。世良など奥羽鎮撫総督府の首脳陣は1868年3月に仙台入りして、仙台藩伊達氏に会津討伐の命を下します。「東北のことは東北で」というやつです。薩長などはあんまり兵力を割かずに奥州内部でケリをつけさせる目算だったようです。いじめっ子がいじめられっ子にいじめをさせて秩序を維持するみたいな感じでしょうか。それで、先ほども触れましたが、小沢仁志さん扮する世良修蔵が「世良にくたらしゅうぞう」という感じで、もうそこだけ異次元のひとりVシネマという趣で暴れ回るわけですよ奥さん。世良が馬鹿でかい酒杯で酒をガブガブ飲んでいるんですけどね、そこに桜の花びらがひとひらヒラリと落ちてきて酒杯にズームインするわけです。すると世良が顔をあげて庭の桜の木を見ながら言うんですよ。

今頃満開か。なんもかんも遅れた土地よ。ウヘヘヘ。


ドカーン(←全東北の怒り大爆発の音)


ちなみに、3月に桜が満開って、今の感覚だと全然遅い感じしないですよね。ああそうか、あの当時はちょうど地球が温暖化してた時期だ。 とか思った方はおられなかったでしょうか? それについては「いつやるの?」「旧暦でしょ」みたいな世界だと思います。ハイ。ちなみに明治元年は閏月(四月が二回ある)もあってややこしいですね。


それで場面は会津に移ります。手短に言うと、ハセキョー落ち込んでる⇒薙刀に行く⇒ハセキョー立ち直る。と言う感じだったと思います。もちろん本邦初の薙刀専門タレント(ナギタレ)黒木メイサも登場していましたからご安心ください。


続いては上野寛永寺慶喜と海舟のフリートーク。慶喜「ウェイウェイ?」海舟「ウェイウェイ!」みたいな感じ。最後に慶喜が「僕に家臣がいたかな?」だって。サンデーモーニングだったら「喝!」って言われてると思う。相手が勝だけに・・・。 寒い・・・。死にたい・・・。こうして江戸城明け渡しとなり、慶喜は江戸から水戸へ行っちゃいました。


それで話が戻りますけど、仙台藩は新政府から会津討伐を命じられたものの、会津に同情するわけです。それで仙台、米沢が中心となって奥羽諸藩が団結して会津の赦免を求める嘆願書を出します。


そこからは基本的に世良がムカツクことする→奥羽諸藩がじっと耐える→世良がムカツクことする→奥羽諸藩がじっと耐えるのネバー・エンディング・ストーリーかと思わせる展開。


一方、バリバリの当事者の会津は、奥羽諸藩の嘆願に望みをつなぎつつ、新政府軍の攻撃に備えて迎撃態勢を整えていきます。白河方面の総督は西郷頼母。あと、その場に新撰組の土方と齋藤も同席していて、新撰組も白河方面に組み込まれることが決まる。越後口は佐川官兵衛。官兵衛は日焼けサロンに行ってると思う。日光口は山川大蔵が担当となることが決まる。ちなみに、このときに容保から名前を訊かれた齋藤が「山口次郎」と名乗ったので、官兵衛が怪訝そうに「山口?」とつぶやくシーンは微妙におもしろかったですけど、そのあと特にフォローのシーンもなかったので面白さが倍増していました。それで齋藤改め山口と時尾の運命の出会いのシーンもありました。ハイ。


それでまあ結局ですね、世良の横暴に辛抱に辛抱を重ねていた仙台藩士らがついにはブチ切れて世良を暗殺してしまいます。これでいよいよ会津戦争が本格化してしまうわけですが、この暗殺はいったいなんだったんでしょうか? 交渉をして戦争を回避するつもりであれば暗殺はあってはならないことですし、戦争は不可避と考えていたとしても世良を暗殺するメリットはあまりなさそうな気がします。仙台藩としては殺してから考えよう、ケ・セラ・セラ的な勢いだったんでしょうか。相手が世良だけに・・・。寒い・・・。凍える・・・。


でもまあこれをきっかけにして白河城への攻撃は開始されます。兵器の性能に雲泥の差があり、会津の砲弾は敵陣に届かない。白河城はあっさり落城。会津藩の戦死者300人。


越後口を任された.佐川官兵衛は長岡藩家老河井継之助のもとを訪れて奥羽同盟に加わるように説得する。河井は長岡藩が購入したギャットリング砲の設計図を見せながら、奥羽同盟に加わる意志を伝えます。奥羽越列藩同盟の成立である。こうして新政府軍との対立の構図がいよいよ鮮明となるわけです。


ということで次回からは会津戦争が本格化していくようです。徳川が十五代続いたということは、おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんの頃くらいから戦争経験のない世代が続いていた職業軍人階級という、世界的に見ても稀有な存在だった武士たちの目の前に突然戦争が降ってきた、明治維新というのはそういう時代でもあるわけですね。