計量カップと格差社会

長年使っていた計量カップがあっさりと壊れたのは暑い夏の日だった。ほんの少し前のことなのに随分前の出来事のようにも感じる。真夏のあの暑さを夏の終わりになるともう思い出せないのと同じことかもしれない。仲の良かった夫婦でも、きっかけすら思い出せないような些事をきっかけに、一瞬で巨大な裂け目が生じてしまうように、我が家の計量カップが不可逆的機能不全に陥ったのもほんの一瞬の出来事だった。その日一日は家族で涙にくれて、眠れぬ夜を過ごした。結果的に寝不足となった翌日にしっかり昼寝をしたのが職場だったということは必然とも言えるし偶然とも言える。世の中の出来事の大半は偶然とも言えるし必然とも言えるのだ。


小学生の息子を近所の高級100円ショップに派遣したのはそれから何日かたってからだった。「なんだいあれだけ悲しんでいたのにもう新しいのに乗り換えるのかい」という視線が突き刺さったが、計量カップのない生活はとっくに限界に達していた。ビアグラスでだし汁を鍋に注ぎ入れるという生活がすっかり私の精神を荒廃させてしまったのだ。わたしは108円ではなく300円を息子の手に握らせて「帰りにアイスでも買いなさい」と囁くだけでいともたやすく買収に成功した。


ほどなくして息子は帰宅した。
「はいこれ買ってきたよ」
と買い物袋を手渡した。
「なにこれ?」 
「えっ? 計量カップだよ」


それはえらく巨大な物体だった。私はおそるおそる袋の中を覗くと巨大なプラスチックのカップが入っていた。容量500ml。体重550トン。巨体がうなるぞ空飛ぶぞ。
「ちょっとこれなに? パーティーグッズ?」
思いがけずむっとした調子になって息子を問いただすと、
「これしかなかったよ」
と悪びれずに答えた。口角にはチョコレートアイスがべったり付いていた。
「ピノ?」
「うん。」


私のささやかな個人史において計量カップは常に不動の200mlサイズであった。そして1カップは何mLかと問うことは、ローマ法王にあなたは神を信じるかと問うのと同程度の愚問なのだった。もちろん誰しもがそうであるように、わたしもお米の1カップだけがなぜ特権的に1合=180mlを譲らないのかという若々しい抗議の声をあげた時期があったことを隠しはしない。しかしそれでも計量カップと言えば不動の200mlであり、料理本に「3カップのだし汁」とあったときに、たまたま手元にあったお猪口にだし汁を注ぎそれを雪平鍋に注ぐという単純作業を3回繰り返し、出来上がりを味見して「水っ気がぜんぜん足りてねえ」と出版社に抗議の電話を入れるというような自己中心的な態度をとったことなどは一度としてなく、きっちり200mlサイズ計量カップ3杯のだし汁を鍋に注ぎ続けてきた人生であった。
「なぜ手元にお猪口があるんだよ」
「うるせえ」


暑かったその日、わたしの人生の安定を担保してきた200ml計量カップがあっさりとその地位を追われることとなった。新顔の容量500mlの計量カップが平穏な我が家にある種の禍々しさをもたらした。わたしはその図体のでかい新人君に冷淡な態度をとりつづけた。彼がもたらすあの禍々しさに飲み込まれるのが怖かったのだ。
「おい新入り、でかい面すんなよ」
「すみません」
新人君は恐縮してすっかり小さくなっていた。


「えっ?」
「えっ?」
「このシチューのレシピに水3カップって書いてあるけど1.5L入れろってことだよね?」
「い、いえ・・・そ、それは・・・」
「3カップって書いてあるだろうが!ここに!」
「で、ですが、それは香川綾先生が・・・」
「なに? 貴様、香川先生を知った上でのその乱暴狼藉か?」
「工場長が、工場長が、お前はプラスチックだからサイズなんていつでも変えられると言うもんだから・・・」
「えっ?」
「えっ?」


ワンカップ大関(180ml)をちびちびと飲みながら新人君のこれまでについて話をきいた。彼はあふれる涙を拭おうともせず、しゃべり続けた。聞けば、中学卒業してすぐ上京して以来、苦労の連続だったらしい。彼の話に耳を傾けながらも、プラスチックですら可塑性が担保されないこの世界で、「君の人生はいつでもやり直せる」というような言説が果たしていかほどの力を持つだろうかと自問せざるをえなかった。


500mL計量カップとの新しい生活がこうして始まった。もちろん、200mL計量カップに対する罪悪感が、この新生活をギクシャクとしたものに変えてしまう瞬間が時としてあるわけだが、私はもう決めたのだ。彼とともに生きていくことを。わたしは新しい生命をその身体に宿していた。<了>




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