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「あっ、僕、江戸に帰るね」『八重の桜』第二十一回レビュー

1868年1月。都での会津藩の苦境を伝え聞いた八重らは不安な毎日を過ごしていた。覚馬の娘おみね(突然巨大化)と八重が神社にお参りに行くと、そこには神保修理の妻おゆきの姿があった。八重に気付いたおゆきは「神様を試してはなんねえな」とつぶやく。


第七回を覚えていらっしゃるだろうか。あの放送では京都守護職就任が決まった容保に従って多くの会津藩士も不穏な京都に上ることが決まり、その前に家族で大切な時間を過ごすという回でした。あの放送では覚馬と尚之助の衝撃の入浴シーンの陰に隠れてしまっていたが、八重らが温泉に向かう道中の神社で、運だめしに鳥居の上に石を乗せるというシーンがあったのだ。そのシーンで、おゆきも鳥居の上に石を乗せようとするのだが失敗してしまう。縁起が悪いのでもう一度チャレンジしようとするおゆきに対して、修理は「運だめしなど無用だ。自分は必ず無事に会津に帰ってくる」と宣言したのだ。先ほどのおゆきのつぶやきは、その場面を思い出してのことであった。「あの時落とした石のことで、もしバチが当たるなら、わたす旦那様には当ててほしくねえ」とつぶやくシーンは長期で続く大河ならではのなかなかしみじみとくる切ないシーンでした。 



会津に残る人々の願いも虚しく会津軍の苦戦は続きます。特に大砲隊の到着の遅れによって、歩兵が敵陣に切り込めないでいた。防戦一方で前に進めない佐川官兵衛や新撰組であったが、そこにようやく大砲隊が到着する。玉山鉄二扮する山川大蔵であった。が、なんか変な格好してるし。ソフトバンクの宣伝に出てくる金爆みたいな格好。中村獅童も思わず素に戻って「なんだその格好は?」と口にしてしまう。一緒にいた新撰組も「戦国自衛隊か!」というような表情で大蔵を見つめているが、当の大蔵はお構いなし。「どうです似合ってるでしょう」みたいなドヤ顔気味の対応であった。格好はおかしいけど取り敢えず大砲きたからちょっと息を吹き返した会津軍。ちょっぴり反撃して反町が怪我してた。あのシーン必要だったかな。


しかしここで薩摩軍が錦の御旗を掲げたことで戦場に衝撃が走る。幕府軍に動揺が走る中、慶喜は最後まで闘いぬくと宣言して士気を高めようとする。しかし、それでも譜代の淀藩までも新政府軍に寝返るなど、幕府側の動揺はおさまらない。こうした状況の中、会津藩の神保修理は兵を率いていったん江戸に撤退し体制を整える不戦恭順策を慶喜に建言する。


苦戦を強いられながら必死に戦う会津藩であったが、味方についていたはずの藤堂藩が薩長軍に寝返るという不測の事態が生じたことでさらに状況が悪化する。そしてこの戦いで八重の弟の三郎は負傷し、「あんつぁま、姉上」と言い残して戦死する。


ちなみにこんなのありました
→「藤堂藩の裏切りが、勝敗を決めたのですか」yahoo知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1127489391



会津藩士の間では、徹底抗戦を主張していた慶喜に神保修理がなにやら吹き込んだことで撤退に方針転換したという情報がなぜかすっかり広まっている。誰がリークしたんだ。そこからはもう絵に描いたようなドロドロの撤退劇。


慶喜「僕は江戸に戻る」
容保「ダメダメムームー」
慶喜「会津の家訓には徳川を朝敵にせよとの一条があるの?」
容保「ムググ」


結局、容保は家臣にも告げずに、慶喜に従い天保山で軍艦開陽丸に乗り込み江戸に戻る。兵を放置してさっさと江戸に帰っちゃうって、ある意味慶喜凄い。藩主にドロンされた会津藩士たちは唖然呆然。江戸に下った容保はすぐに官位剥奪、朝敵の汚名を着せられる。この状況で、「不名誉」な不戦恭順策を進言した修理に批判が集中し、修理は幽閉されてしまう。


しかも、江戸に戻って立て直しを図ると思われていた慶喜が、会津藩などに江戸からの立ち退きを命じる。あっさり新政府軍に白旗を上げたのであった。徳川のために必死に戦った会津が朝敵の汚名を着せられて都を追われ、今度は江戸からも追われるという惨憺たる状況に、会津藩士の不満は鬱積し怒りの矛先が修理に向かう。この批判を封じ込められない容保は、ついには修理に切腹を命じる。神保修理31歳であった。容保は切腹の命を下していないという説もあるようですが実際はどうなんでしょうか。とにかくまあドラマとしてつまんないわけじゃないんですけど、ズドーンと気持ちが沈んでいくような展開が続いております。


もう京都に大学なんていらんでしょ、というような感じです。




ちなみに神保修理の弟の北原雅長は後に初代の長崎市長になっているそうです。修理は長崎に遊学してそこで坂本龍馬らとも交流があったということなので不思議な因縁と言えるでしょうか。北原雅長は1904年に『七年史』という本を書いていて、これは会津藩は朝敵でなかったという立場で書かれているそうなんですが、彼はこの出版によって不敬罪に問われて拘留されたそうです。「朝敵の汚名を着せられる」という感覚は正直ピンと来ないのですが、会津の人々にとっては非常に重いことだったということでしょうか。『七年史』は近代デジタルライブラリー(国会国立図書館)で目にすることができます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772820